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はじめに<もくじ>

ご訪問ありがとうございます。
ここは候文素人のブログ主が、夏休みの自由研究的なものを置いているブログです。
ときどき明智光秀さんの様子をアレコレ覗いたりしてます。
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◆遊行三十一祖京畿御修行記
時衆同念上人の遊行記録の現代語訳。天正八年一月廿四日に明智光秀が登場します。
◆中務大輔家久公御上京日記
島津家久の旅日記の現代語訳。天正三年五月十四日と十五日に明智光秀が登場します。
◆連歌百韻「月雪や・・・」
年時未詳。明智光秀・里村紹巴・斎藤利三参加の連歌会の現代語訳。
◆明智光秀の前半生
「長崎称念寺門前十ヵ年」の意味。「門前」の語句が正しく理解されずにスルーされている現状。
◆明智光秀ゆかりの地
いつか足跡を辿るときのために集めた自分用の旅情報。
◆ふくちやま
由良川の治水や明智藪についての考察。

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RT:明智藪と呼ばれるようになったのは…

おひさしぶりです。
長らく更新が止まっていますが毎日見に来てはいますよ。

さて、両丹日日新聞にて明智藪の話が取り上げられていたのでシェアしたいと思います。
『光秀治水の象徴「明智薮」 ホントは…?』というタイトルで、明智藪という名がついたのは戦後であることを述べています。
「福知山史談会の元会長、塩見昭吾さんも「史談ふくち山七四一号」で、「昔は明智藪と呼んでいなかった」と指摘している。」(引用)
この「史談ふくち山七四一号」はネット上でも目録だけ閲覧可能なのですよね。
わたしも明智藪と呼ばれるようになったのは最近であるというタイトルだけ見つけ、冊子を入手したくて人に頼んだりもしたのですが、叶わず…。こういうカタチで確認出来て嬉しいです。

また福知山市文化・スポーツ振興課の文化振興担当課長、西村正芳さんは「明智藪と呼ばれるようになったのは、おそらく戦後からだろう」としています。

やはり地元の方々の知見は頼もしいですね(^^)
エビデンスも確かめずに勝手な憶測をTwitterで流す歴史学者さんもいますけど、そういうのに比べて地味にコツコツと郷土史にあたってきた地元研究家さん達の誠実さが光ります。

●両丹日日新聞2020年2月27日『光秀治水の象徴「明智薮」 ホントは…?』
https://www.ryoutan.co.jp/articles/2020/02/89978/



うちのブログでも明智藪について調べたことがありました。
●由良川の治水や明智藪についての考察シリーズ http://mituwhis.blog.fc2.com/blog-category-13.html

江戸時代の福知山城の地図を見て、「(今の堤防らしい)堤防というより城下町の輪郭しかない!」とびっくりしたのがきっかけでした。
ネットでも江戸時代の地図は見られるんですよ。

⑮天正七年九月十三日~二十六日<京滞在編3 御参裏と藤沢衆の別れ>

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同十三日御参裏、綸旨伝奏勧修寺殿にて暫禁中之様窺給ふ。遊行不私団扇持し給ふ事、為勅定一遍江被参し故無子細として只今持して御参内。清涼殿重階まて御待者寮坊主二人其外御庭前に有。
さ伝春宮江御参。其時殿上人おほく御算とらせ玉ふよし。其後紫宸殿なひし所へ御参りあれハはしはしの御女房たち供御所より出られ、あまた御算被賦事先代未聞也とそ。
同十四日信長公へ御礼儀に御座ル。御在京尤珍重、不可踈意申之旨候キ。
同廿五日廿五代御正忌、別而今度御上洛御参裏御冥加(みょうが)之程、是も師恩とて臨時踊有。上下京中洛外より参男女貴賤無申斗。殊渇仰のあまりにもや、諸人申沙汰する不思議共筆にあらハすも何(か)とか満しけれ共しるし残せり。
廿五日深更まで相詰之道俗入堂侍り。
同廿六日藤沢衆下向。遊行衆送りに三十三間の堂にて、あるひハ詩をうそふきあるひハ歌を詠し、互ニ名残をおしむ。難期再会故か。


⑭天正七年九月三日~十一日<京滞在編2 誓願寺!>

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九月三日彼岸も過ぬれは三条油小路荘厳寺江御入馳走無是非。其夜大頭大夫令ニ祇候舞三番申。
同五日誓願寺へ御座。其御通に所司代へ御礼儀、段子金襽二端、長州拝領忝之由誓願寺へ被参御行事聴聞。御宿極楽寺大衆小川町。十七日御勤歓喜之由楚仙被申。左テ近衛関白摂政殿御参あれハ以下の人々、袖をつらねもすそをそへて御算名号を請る事不分昼夜ありさま難申尽京中の事なれは紫雲のたち華のふるといふも有。是やめつらしきにうつりやすき人の心誠に世のならひなる故か。答拝渇仰申段いハむかたなし。ことに信長日連一宗既可有追放之刻なれハ、一入念仏利益増光深甚なり。大和河内丹波摂津国よりの参者ハ逐日追夜せり。御布施料過分令出来尽以誓願寺造営のため御寄進なされき。是も奇異の取沙汰なりし。
御行事十七日満しぬる十一日、可有御参裏之旨勧修寺大納言殿より御案内。雖然代々七条よりなされ来たる例を以金光寺江御帰寺。其日則信長京着、洛中俄物のなりをしつめ諸人気遣の事かきりなし。木食楚仙此間の御礼として被参。彼是御仕合珍重之由よろこび被申上に付て、二寮六寮を以楚仙懇望如御覧候堂宇建立大概成就す。雖然先年炎上之時一遍上人額御名号紛失たり。今度希有御在京末代伝記にも御当代卅一上人不思議として、御名号申請額ニ穿鑿シ備申度望也。然有上人ハ古聖の御再現某ハ発起和泉式部ニ同一ナル者乎。両寮御取成頼可存之旨、多重雖及御斟酌無拠歎被申上ハとて被遊遣ヌ。


⑬天正七年八月末~九月<京滞在編1 秋雨と七条金光寺>

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折節昨日事外ふりし秋雨に、淵瀬をもしら川の水かさまさり、四条五条の橋もとたえ侍れば、乗馬ともハうちひたして渡し御輿に人々とりつきぬる有様祇園会御神渡のやうにみえぬ。
倩(つくづく)爰(ここ)ニ往古おもひあハするに、二祖大上人加賀国石川郡石立と藤塚という中間の大川ハ、越の白根よりおつる洪水いとはやく舟もさしえす末の海へなかれ行よしにて、いかゝせんとつとひこそぬる旅人もちりに立帰りぬ。然ハ大上人云汝等いつまて行かたなくこゝに有なんとて、御衣の帯共結合御口にくハへ玉ひ大衆とりつきわたれと飛入り玉へハ、一人も落溺すむかひの岸に着ぬ。偏ニ白山権現藤塚の御神力加持し玉ふ事現なりし。それより手取川と号すとかや。今又其時の聞伝し心ちハかりに卅一世上人蹲踞(そんきょ)いよいよ申也。侍申さるる御喝食小姓大姓たちいかにもはなやかに、稲荷音羽の薄紅葉手折かさして心ものとかなる九重の春にたちかへるかと覚ぬ。
無程七条金光寺へ御移。僧尼御算給檀那衆同前。然して日中に日々二条殿九条殿御はらからにておハし渡り玉へハ、御車を双て御参り、其外隠形の公家御かたさまたち、武家には細川藤孝の廉中取分そ信仰候き。